ニンニクは、古代エジプト時代からの強壮剤としての歴史がある?

ニンニクの歴史は、古代エジプトから強壮剤として使われていた?

ニンニクは、その学名をAllium sativum L. と言い、植物学者のリンネがニンニクを意味するラテン語Alliumを属名とし
栽培を意味するsativum を種名として命名したものです。

そのニンニクはユリ科の植物で、タマネギの仲間です。

ニンニクはネギ科、植物の形態に着目して分類する「新エングラー体系」では、ニンニクもユリ科に分けられていました。
新エングラー体系は、ドイツのエングラーが、1900年ごろに提唱し、その後、修正を加えながら発展したものです。
単純な構造の花から、複雑な構造の花へと進化した、との考えに基づいています。

現在、最も一般的に使われており、日本で目にする植物図鑑や植物ガイドブックのほぼ全てで、 新エングラー体系に基づく分類が採用されています。
植物の分類は、まず、この花は○○科、というのを覚えるところから始めるのが普通です。

ニンニクは、古代エジプト時代からの強壮剤としての歴史があり、
ユリ科の多年草であるニンニクは、中央アジアが原産です。その中央アジアとは、ロシアと国境を接する現在のキルギス共和国あたりを指します。

人類の歴史に、ニンニクが登場するのは、紀元前4,000年頃の古代エジプト、つまり今から6,000年も前にさかのぼります。

その古くから、香辛料や強壮剤としても知られてきました。
古代エジプトのあの巨大なピラミッドを造るときにも、労働者たちが愛用した、とピラミッドの内部に記されています。

著書『エジプト記』に残されたその象形文字には、労働者たちが体力維持に使ったニンニクやタマネギの消費総量が記されています。

当時の銀単位で16,000タラントンもの量を1日で消費していたことがわかりました。
ニンニクやタマネギは、ピラミッドの建設に関わった労働者たちの貴重な活力源として利用されていたのです。
※1タラントンというのは、お金の単位ですが、莫大なお金のことです。
1タラントンで6,000デナリオンです。1デナリオンが労働者1日分の給料ですから1タラントンで6,000日生きられるという計算になります。

紀元前3,750年頃に造られたとされるエジプト王の墓から9個のニンニクの粘土模型が発見されているのです。

紀元前1,500年以前に書かれたとされる世界最古の薬物治療書「エベルス パピルス(The Papyrus Evers)」には、疲労・衰弱・手足のふるえを伴う神経系疾患、月経不順や堕胎、心循環系疾患などに効くとしてニンニクを含む22の処方が記載されているのです。

紀元前 600 年頃の新バビロニア王国の空中庭園は世界七不思議の一つにあげられますが、
ここではニンニクの栽培が行われていたということが、発掘された粘土板から判明しています。
そのニンニクの凄さは、古くからよく知られ、「医学の父」といわれる、古代ギリシャの医師ヒポクラテス(紀元前460年ごろ~375年ごろ)は、薬草としてニンニクを高く評価していたようです。

彼もニンニクの力に注目した学者で、さまざまな体験や実験から、消化器系や心臓病などの諸病に、ニンニクを用いた治療を薦めていました。

中国では、紀元前121年頃、外交使節である漢の国の張騫が、母国へニンニクをもたらしたと言われており、以来、食としても医薬としても、ニンニクは中国漢方の重要な地位を占めています。

中国漢方薬草学の古典で有名な「本草綱目」には、ニンニクを生で食すれば怒りが内にみなぎり、煮て食べると性欲が高まるので、仏教や道教ではニンニクを禁じている、と記述されているほど、「百害あって一利なし」の生薬であることが書かれています。

アフガニスタン、中国、朝鮮を経て、わが国に渡来したのは約2,000年前のことになります。
しかし、仏教思想に反するため、日本では一般にはあまり普及しませんでした。

実は、日本への正確な渡来時期は不明ですが、平安時代以前に中国から伝わったと考えられています。
実は4世紀ごろに、朝鮮半島、中国大陸を経て日本に伝来したと考えられます。
「古事記」(712年)には「倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東国を平定し帰途にあり、足柄山の坂本で食事をしているときに、坂の神が白鹿に化けて出て来たので、倭建命は食べかけの蒜(ニンニク)で白鹿を打つと、目にあたり、打ち殺した。」と記載されています。

また、「日本書紀」(720年)にも日本武尊(やまとたける)と蒜(ニンニク)について同じような記述があります。

ニンニクの栽培に関しては、918年の「本草和名」に記録されているのが日本における最古の記述です。
「本草和名」(平安初期の本草書・薬物辞典)によると、当時から薬用や食用として利用されていたようです。

ニンニクは、日本では古くは「ひる:蒜」と呼ばれていました。実は、ニンニクと呼ばれるようになったのは、
室町時代初期のことのようで、1454年に飯尾永祥が著した「撮壌集(さつじょうしゅう)」に「葫(ニンニク)和名大蒜」、
1548年に成立した辞書「運歩色葉集」(うんぽいろはしゅう)には「葱蓐(ニンニク)」と記載されています。

江戸時代になると、「ニンニクは、悪臭甚だしいが、効能が多いので人家に欠くべかざるもの」
(大和本草)と、薬効の面では高く評価されていました。明治時代になって鎖国が解かれ、肉食の料理が広まるにつれて、食用としても愛用されるようになりました。

江戸時代の農書「農業全書」(1697年)にも効能や栽培方法について記されています。
農業全書は江戸時代のバイブルとも言われています。

農業全書は、農業に関する様々な役立つ内容が記されている、いわば農業の百科事典の役割です。
といっても農業のことだけでなく、農業に従事した農民たちの生活の様子なども記されています。
日本で最初の体系的農書として有名です。

五穀や四木三草(四木は桑・漆・茶・楮(こうぞ)、三草は麻・藍・紅花)をはじめ、
たくさんの農作物情報が全10冊にわたって記されているのも特徴です。

この農業全書を体系化してまとめた著者である、宮崎安貞は、江戸時代の偉人で、もともとは広島藩に生まれ、福岡藩に仕える藩士でした。
面白いことに、彼が30歳ごろに隠居して農業を始めたのがきっかけでした。

それから彼は様々な国を見て回って農業を研究し、また自分も農業をやってたくさん経験を積んでいったそうです。
この農業の研究になんと40年もの歳月をかけて、ついに完成させた『農業全書』は、現在も岩波文庫から出版されています。

まさに一生をかけた超大作です。

この『農業全書』は明の『農政全書』をベースに作られたものではありますが、日本の農業の実態に合わせて詳しく記述されている点で、とても評価が高いのです。

その農業全書の中には、
発汗、解熱、呼吸器病、ゼンソク、百日咳、腹痛、下痢、食中毒、貧血、利尿、腎臓病、
心臓病、婦人病、吐血、カリエス、神経痛、中耳炎、腰痛、肩こり、老眼や水虫に至るまで、内科、小児科、皮膚科、外科などのほとんどの病気に効果をあらわすと記載されています。

日本における、ニンニクの研究は1930年代〜1950年代にかけて盛んに行われました。
京都大学の博士であり、理研科学の創始者である小湊潔博士が「スコルジニン」という薬効成分を発表しました。

また、昭和34年に京都大学の藤原元典教授(1915-1994 昭和時代の医学者)が「アリチアミン」を発見しました。
ニンニクからビタミンB1誘導体を抽出し、アリチアミンと命名したのです。
それを、あなたも知っている、武田薬品工業株式会社が「アリナミン」として製品化したんです。

長く京都大学派が牽引して研究成果をあげ、ようやくその一部が明らかにされました。
今では、常識的になってきている悪臭のもとアリシンに殺菌作用があることも科学の力で解明されようとしています。

黒にんにく・つぶくろ

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